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NORO03-02507251347/野呂第三号5 ......

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この病院にきて一番先に眼に写ったものは、ホール(今の面会室)で院長先生と児童四、五人が食事を共にし、スプーンよりこぼれ落ちる食卓一ぱいの飯粒を院長先生自ら拭き世話をされている風情であった。初めてみる精薄児、てんかん児であったが、この児等は幸せだなと思う反面、変った事をされる院長先生だと思った。来る日も来る日も可愛想な児童と取組んで寝食を共にされる真剣なまなざしに心打たれ、「これだ」私のするべき仕事はこれだと心に誓った。(中略)世の中にはこの様な薄幸な児が数知れなくいる。まだここに入院している児は理解ある職員に見守られ楽しく訓練出来遊べ幸せである。知能は低いが社会に迷惑をかけない児とする様みな一生懸命で毎日をこの児等に教えられ励まされ苦しみも「おはよう」「早く帰ってネ」の片言の言葉に忘れ去り、有意義な生活が出来る長年月の大きな喜びは、筆舌につくされないものがある。この児等に大きな愛と理解を持って欲しいものである。子供は愛らしく純真で素直に何でも表現する。私達は絶えず反省するものだ。先日或人が、「陰でブツブツ言わないで表面で言えばいいのにようガタガタする」と言っていた言葉をきいた。児童のように何でもあからさまに言えないにしても、言って然る可き事は発言してすっきりしたいものだ。それともブツブツいわざるを得ない告口がひどいのか、素行にあるのか何となく靄がかかっている様に思える空気はお互いのこの辺にあるのではなかろうか。
和、協調いくら叫んだとて書きつらねたとて各人が疎通しなければ意味もない。心気一変お山の大将は捨て桶にならぬ様(我さえよければよい)桶になって(しっかりした和)人作りと言うお題目で終らず職員の一人一人が話合えるよう発言し理解し合ってすっきりした病院、自分となる様心懸け様ではありませんか。(第三号 喜びと憂い D)

 
 注) この辺りで、あらためて、この文が書かれた年代を鑑みて、文章表現に寛容をお願いします。我々の世界では、その当時の共通表現(述語と言っても良い表現)を使用することが、認識の共有でもっとも大切な事の一つであるためです。特にご本人の人となりを良く知っている場合、文章の作りは当然の事、誤字であっても、段落以外は、可能な限りご本人の記した通りで、理解に問題がなければ無編集としています。人は、思いながら文をしたためる時、ヘンだとは感じても、そう書きたいこともあるものです。当時は、変換間違いもありません。現代では、編集と称しながら、捏造に近い文章もわりと散見されますので。