私の故郷の紹介

遼寧省・本渓市

私の中の本渓市

本渓は中国の遼寧省にある市です。省都の瀋陽市から車で1時間程度のところに本渓市の中心部(市区)があります。人口は158万人に達し、市区に住む人口は94.7万人になっています。そのうち、多民族の人が東側の自治区にも住んでいます。

本渓市の面積の八割以上が山地で、そのほとんどが東部の「本渓・桓仁満族自治区」です。市域は山に囲まれて全市面積の約三分の一に占めます。市内に遼河の支流である「太子河」が流れています。現地の人々に「親の川」と呼ばれ親しまれています。

本渓は鉄鋼の町として有名です。近年は、鉄鋼工業が衰えていく中、経済成長も停滞している一方ですが、80年代までの中国の発展を支えてきて大きな貢献をしました。今でも数多くの住民は鉄鋼工業に関わる仕事をしているようです。

右側にある写真は平成14年に、山から見た本渓市です。 工場の煙突から立ち上った煙が遠くからはっきり見えます。重工業を一方的に発展してきた結果、本渓市の空気汚染も深刻化しつつあります。近年、重工業の他に、資源に富む環境に優しい観光産業を促進され始めました。

観光資源

本渓の地は、深い林に囲まれ、川がその中に縦横に土地を潤していて、遼東の重要な水源となっています。これは「水の本」という意味する地名の由来でもあります。こんな自然に恵まれているところに観光資源もいっぱいあります。世界で一番小さい湖で知られる「本渓湖」があります。小さいことだけでなく、霧の深さでも知られています。その水源から「本渓水洞」というアジア最長の地下水に溶食された鐘乳洞が形成されています。

それに、太子河の支流にある関門山ダムの「関門山風景区」は紅葉の名所として知られています。

こちらの写真は「関門山風景区」で、観光客が竹で作った細長いいかだを使って水面観光を楽しんでいる様子です。

本渓市の誕生・歴史

本渓市の歴史は大変古く、旧石器時代の暮らしを反映する人類文化の遺跡が発見されたことで、貴重な人類学の歴史研究資料を提供してくれました。

西側の本渓市街地と本渓県、東側の桓仁県は歴史が異なります。
本渓県は戦国時代には燕国の遼東郡に属しており、秦代、三国時代の魏、および西晋の時代も本渓市街地と本渓県は遼東郡襄平県に属しています。唐の時代には、安東都護府の遼城州に属しました。桓仁県は前漢の武帝の東方遠征によって編入されて、その後、高麗民族の勢力が強まっていくことによって、高句麗の発祥地となりました。その後はまた所属がそれぞれでしたが、中華民国から初めて本渓県と桓仁県を奉天省のものにしました。
日露戦争後、東北地方一部が日本に統治されて、管轄区域に入っている本渓市も鉄道沿線の資源開発のことで取り込まれました。そこで、本渓にある豊富な鉱物資源を採掘して製鉄し始めました。これも本渓市の重工業事業の取りかかりとなります。

本渓に対する思い

私の故郷の本渓市は、多様な資源に恵まれて輝いた始まりであったものの、それ以降輝きを失ってきました。時間が経って、中国の発展の重心が重工業から軽工業へ、北方地区から南方地区へ移行することによって、この土地で生活した人々は今まで頼り続けたライフスタイルを捨てようと時代に宣告され、彼らたちのプライドもそれと共に崩れ去りました。

本渓市だけではなく、東北地方全体でもある意味、中国の変換期における使命を背負ってきました。

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